どうも1B, 2D, 3Eだった高橋 智です

どうも1B, 2D, 3Eだった高橋 智です。(写真は先月 AKS50登山部で行った秋田駒ケ岳で)同期会何もしてこなかったのでお仲間に入れていただき感謝しております。S50以降の Quick Overview としては、長めの学生生活をして研鑽を積んだのち化学会社で農薬の研究所計18年、米国5年、東京計13年、仙台3年、ブラジル5年(順不同)働いて糊口をしのぎ、3月に退職して秋田に戻った次第です。

 さて私は小学校から洋楽にハマり、ウッドストック・フラワーチルドレンといったカウンターカルチャーにずうっと憧憬れてました。1990年に San Francisco 駐在した時、すぐやったのは Haight-Ashbury 地区や Fillmore West 跡地、Monterey 等の聖地巡礼です。20年経ても街の雰囲気は大いに残ってて興奮しました。ただ住人は入れ替わってまして90年頃は Yappie なる人たち(若くて成功したお金持ち)が増殖中でヒッピーはほぼ絶滅でした。(ま、そうですよね、あれでメシ食っていけるわけないし)それでかつての盛り上がりを知るべく仕事で知り合いになった当時 UC Berkley の学生だった人に聞きましたら「 UC でそんなことやってた学生はいなくて、ほとんど学外から来た連中が騒いでたんだよ。」とのこと。真面目に勉学に励んでた人とカウンターカルチャーやってる人とは重ならないんだとそこで理解しました。

 事務所移転で NY に引越した1992年頃、あの Woodstock(1969年) の開催地 Yasgur’s Farm, Bethel, NY に行きました。農場手前の食料品屋に寄ると Woodstock のポスター(ギターのネックを抑える手にハトが乗ってるやつ)とチケットの多分本物が置いてありました。しかし現場を訪れる人はほとんどおらずコンクリートの碑があるだけ。そこに長髪にサイケな絞染めTシャツの人が「Woodstock もう一回やるぞ」って募金・署名集めしてまして「 ここは National Historic Site じゃないし、Woodstock は米国文化の本流としては認められてないんだよね。」って言ってました。石碑以外本当に何もないので映画で雨後に泥んこ滑りしてた坂のあたりで小石を記念に拾いました。多様性と言うけども実際の米国、特に東海岸側は保守的だと思いました。(個人の感想です。)

 米国で意外だったのは畠山圭一さん(2D)。1990年に George Town(Washington DCで日本食屋が多い地区)で再会。当時彼は大学の客員研究員で文科省の委託業務をしてました。

 それから月日が流れ国内外の営業・管理部門を経験した後、”バッテキ”され2012年から Sao Paulo 駐在。そこは見上げる満月はウサギさんがお餅をついてるけど上下逆、朝太陽が東から昇るんだけど途中で南じゃなく北に寄ってから(つまり左に動いて)西に沈む世界。これは気付くとどうしても気持ち悪かった。ブラジル日本商工会議所の宴席で血中プログレ濃度がやたらと高い人たちと遭遇してしまいライブハウス(Tonton Music Bar, Sao Paulo)デビュー。演目 Red(King Crimson)、Time(Pink Floyd)、Focus,、Santana 等。昔、渋谷のヤマハで Drums 習ったんですが、何がいつ役に立つかわからないもんです。(ちなみにライブハウス側は演奏力には無関心で集客力第一。片方のJ-Pop 系バンドに T自動車の偉い人がいて毎回満員御礼でした。)

 ところでブラジルは原則コーヒー豆輸入禁止なので、コロンビア、モカ、キリマンジャロ等は手に入りません。まずコーヒーの淹れ方が違って、非常に濃く出して砂糖入れてデミタスより小さいカップで何杯も飲むというのが本場の飲み方であります。ガツンとくる味で濃すぎて芳香・苦味・酸味・コク・アクは識別困難。これだと豆の種類は関係ないように思われました。(個人的な感想です)アラビカ種の Yellow Bourbon 等の高級品種もありミナスジェライス州の標高が高い産地が有名です。

 そう言えば日本酒ブームもありました。現地生産の東麒麟(ウルグアイ産あきたこまちで醸造)が売れてましたが飲み方が違いました。日本酒はサケピリーニャのベースなわけです。これは Caipirinha という伝統的カクテルがあり、Alc. 40〜50%のカシャーサをベースにライムと砂糖を入れたものですが、そのカシャーサを日本酒で置き換えたものがサケピリーニャ。すでにブラジル食文化に取り込まれて地位を確保し、マイルドなので女性ウケしてました。ただ、これですと日本酒自体の品質はさほど意味を持たないためか、質を追求した東麒麟吟醸は現地の人にはほとんど売れてないとのことでした。

 オリンピックの頃でしたか、ブラジル秋田県人会(会長:川合 昭さんS29卒)と秋田県との記念行事がありまして、佐竹知事に随行して平川順一さん(2D)、今野 仁さんの Sao Paulo 御来訪があり再会を果たしました。高清水の社長と知合いということで私の株も上がりました。

 駐在中、事務所があるビル一棟丸ごと強盗に入られたり、会社名と私の偽造サインが使われて数百万円分の請求書が届いたり得難い経験もしましたが、無事に戻りました。当時の領事館情報では日本人の強盗被害は月一回程度でしたが、コロナ後は毎週一回に増えたようです。麻薬押収はトン単位、成人すると過去の罪がリセットになるので18歳前に一回やっておくとか、高層ビルのグランドフロアや駐車場フロアが突然潰れる事故が毎年発生するとか。(解説:組積造?ですかね、レンガを積上げてモルタルで仕上げる方式で鉄骨は使わず柱に鉄筋を数本入れる構造がほとんどです。22〜24階建が多くそれ以上だと自重で下層階が潰れるらしく施工の悪い建物がたまに崩れるんです)そういう世界でした。

 ここから本題です。日本人はブラジルに対して親心的な感覚で面倒見てあげてお金と技術を投入するものですからブラジル人は日本人が大好きです。ところが地下鉄(例:San Paulo Linha 4)でも自動車でも家電でも買うのは韓国製ばっかり。なぜでしょうか。思いますにそれはジジババからお小遣いをもらっても返さなくてもいい感覚に近いと思いました。(個人の感想です。)

 また当時から日本企業が現地人を財務担当部長などで雇うと駐在員社長とギャラが逆転する現象が一般的になり、みんなでおかしいと言ってました。それがいまやビッグマック指数で分かる通り、日本の方が物価も給料も遥かに安くなってしまいました。(しかも向こうは毎年バケーション付き、泣き)
 いま3歳の孫と同居してます。締めにひとつ詠みます。

「おむつ取れ 孫はスッキリ おニイさんパンツ
ボクにも 待ってる おジイさんパンツ」お粗末さまでした。

    どうも1B, 2D, 3Eだった高橋 智です” に対して2件のコメントがあります。

    1. 田近吉彦 より:

      高橋智さん、3E田近です。
      リレーエッセイの執筆大変お疲れさんでした。
      以前の同期会で何度か会った際、智さんから面白い話は聞いていたのですが、ここまでいろいろな体験をしていたとは…。
      米国でのウッドストックのこと、サンパウロでのライブハウスデビュー、ウルグアイ産あきたこまちで醸造した酒のこと、海外で同期の畠山さん、平川さんや今ちゃん(今野)との再会、ビル一棟丸ごと強盗被害、高層ビルの1階が潰れること等々。
      特に、ビル一棟丸ごと強盗被害や高層ビルの1階が潰れる、なんてのは日本では絶対考えられないですが、世界にはあるんですね。
      あと、サンパウロのウサギさんの餅つきが上下逆で、太陽が東から上って北にいって西に沈む、なかなかピンとこないのですが是非見てみたいものです。
      自分は、海外には10日ほどしか出たことがないので、このようなディープな情報はびっくりしかないです。
      あと、AKS50登山部の駒ヶ岳の写真拝見しました。
      駒ヶ岳は田沢湖が眼下に見えていいとこですよね。
      そのうち私もご一緒させていただきたいです。
      今後ともよろしくお願いいたします。

      1. 高橋 智 より:

        田近吉彦さん、コメント拝受ありがとうございます。細かい話のレスはいずれ次の機会でお話し申し上げます。が、田近さんはその昔からカメラ関係に博識で、当時私ももう少し話を伺っておけばよかったなと今になって後悔してます。それは、いろんな場所で様々な経験していろんな写真を撮るんですが、安いカメラ(主にF値が大きいと言う意味)だと結局ダメですよね。SONY ZV-E10 に焦点距離11mm F1.8 付けて撮ったのが今回の写真です。まあ、最低限でしょう。人生、これって言う場面に戻ることはできないからちゃんとしたカメラの必要性を痛感です。とは言え、もうしばらくはこの調子で今の生活やって行けそうなのでみんなで一緒に山でも何でも行きましょう。せば!

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です