3Eの所澤朗子です

こんにちは、生物部昆虫班の所澤朗子(しょざわあきこ)です。3Eだったということです。  

秋高の記憶といえば、ケニアで捕った蝶を携えて転校直後に入った生物部での日々の活動、採集を目的と称したキャンプのこと等々… あの頃の記憶の断片は、今でも、ふと頭に浮かんで来ることがある。  

その昔から、さまざまなことに興味があって焦点が定まらない。  

それを引きずりながら、大学は教養学部なんていうところに入ってしまったから、理学科に席を置きながら、人類学、インド思想史、言語心理、西洋古典、かじった言語は、フランス語、ドイツ語、ロシア語に古代ギリシア語。結局は生物で卒業して、大学院まで生物系で過ごしてしまっ 

た。q1挙げ句の果てにポスドクという研究職で2年契約でスウェーデンに渡った。  


 

そこで、生物系に一生身を捧げていくと決定したかといういうと、然にあらず。日本に戻っても職は無し、かといって研究費をもらえるようなテーマで研究を続けることにも疑問を感じ、失職することにした。そして育児休暇に突入。  

育休後、生活していかなければならないということもあり、日本のハローワークのようなところが大学とコラボしたIT技術者の養成講座に参加した。1990年代、IT関係は引く手数多だった。理工学部レベルの基礎的なプログラミングや、システム工学、データベースの理論などのコースを大学で1年間学ぶ予定だった。この分野は私にとって初めての分野だったので、見るのも聞くのも皆珍しく、楽しかった。しかし、半年後に同じ大学の生物系の学科でIT系技術者の募集があ 

り、応募したら採用されてしまった。ハードウェア、ネットケーブルの設置から、修理、ソフトウェアのインストール、ユーザーのデータのバックアップ、マルウェアの除去等々。なんでもありの仕事をミレニアムを挟んで6年ぐらい続けたところで、やはり他のことをやりたくなり、休職。  

今度は中学の自然科学の教師になろうと、教育学部が出していた博士課程修了者のために1年半の教員養成講座に通い、教員の資格をとった。修論では、移民の子供が多い学校で、様々な文化的背景を持つ生徒たちの、人間(自分)と自然との関係の捉え方を調査した。人間と自然との関係性は、その捉え方が、文化によって結構異なるということがわかった。学校で環境教育などを行う場合、教師はこの違いを認識し、画一的な(スウェーデン的な)捉え方を生徒に押し付けないことが重要なのではないかと論じた。この調査は、対象がそれほど多くなかったので、今でも、本格的に調査をしてみたいと思っている。  

話は逸れるが、スウェーデンは戦火を逃れてきた難民を多く受け入れている。そういう環境を経てきた子供たちは、花火の音に震え、フィールドワークで草原の中を歩くことに恐怖を覚えることもある。これは20年近く前の話なのではあるが、あちこちで戦争や紛争が続けられている現在でも、トラウマを抱えて生きている子供たちがたくさんいることを忘れてはいけない。戦火の元命を失っていく子供たちも多いわけだが…  

ところで、肝心の教職だが、教育実習中垣間見た、くたびれ切った中学教師たちの現状に失望し、とりあえず元のIT職に復職することにした。中学教師とは、どこの国でも大変な仕事のようだ。同じ頃、市の母語教室で日本語を教えられる教師を募集していたので応募した。理科教師の資格しかないものの採用され、週1回の日本語教師の二足草鞋が始まる。言葉を教えることは、はるか大学時代、教養学部で身につけた雑学の知識が役に立った瞬間であった。 それから数年。今度は市内の公立高校で日本語教師を探しているから応募するようにと母語教育の上司から言われ、応募、採用。これは、市内の公立高校で第2外国語として日本語を履修したい生徒たちを一つの高校に集めて夕方の5時から開講しているコースだったので、二足草鞋にはもってこいのスケジュールとなった。15から19歳ぐらいの生徒たちは、エネルギーもあるし、考え方も柔軟で、とても刺激が多く、学ぶことの多い職場だった。  

高校で教え始めて1年後、教育庁が、正規の教員でないと成績をつけられないという方針を固め、私も高校の日本語の教員資格が必要になった。スウェーデンの高校教員は、2教科以上の専門が必要で、私の場合、生物系の大学での履修単位は高校教員になるためには十分だったので、あとは日本語の単位が必要だった。そこで、スウェーデンで唯一100%通信制の日本語科がある大学に入り、IT職を10%休職し、1年半日本語を学んだ。IT職、日本語教師、日本語科学生の三足草鞋となった。日本語科の初級段階は試験のみで単位は取れたので、1学期に150%以上の単位を履修し、3年分の過程を1年半で修了。履修単位さえあれば、教員資格は取れたのだが、せっかく学ぶのならと、日本語科の卒論もと欲張った。この日本語科の講座で一番面白かったのは、俳句が専門のスウェーデン人の学科長による比較文学で、環境汚染を主題とした日本とインドの文学作品の比較だった。ここでも、自然や環境の捉え方に文化の差が見られるということだった。卒論に日本とスウェーデンの文学作品の比較をしたかった。とはいえ、何せ、三足草鞋の身、作品をじっくり読み込む時間がなかった。そこで、昔から興味があった言語学でアンケート調査をして、なんとか卒論はまとめた。この頃は、二人の我が子たちはキリマンジャロの麓にある寄宿校に入れてしまっていたので、自分の時間は自由に使えたのだが、終盤は睡眠4時間ぐらいの日々が続き、難聴になった。60近くになって、徹夜や、短い睡眠時間の日々を何週間も続けるものではない。  

めでたく、高校教員資格を取得し、二足草鞋に戻る。それから、10年余り。昨年秋にIT職も教師も、退職。69歳までは問題なく仕事を続けられたのだが、父が他界し、空き家となった秋田の家の家仕舞いを始めることにしたのだ。  

スウェーデンと日本の2拠点生活が始まる。  

1年の半分近く日本にいるので、隙間時間に日本語学校で教えようと考えた。ところが、日本では「正規」というか、「法務省認可」の日本語学校では、日本の日本語教師資格を持っていないと教えられないのだそうだ。プライベートや、会社の日本語教室などでは教えらるのだが、留学生を教えてみたい… ということで、一念発起。この秋から日本語養成講座を受講することにした。半分以上は遠隔で、スエーデンからでも受けられる。教育実習は日本で、半年後には完了予定。目下、遠隔で、プライベートの日本語教師もしているので、二足半ぐらいの草鞋だろうか。 かつての、教育学部の卒論の本調査もしてみたい。比較文学も時間を見つけて… あ、そうだ、アイヌ語もかじり始めて、アイヌ文化も学び始めたのだった。この他、核廃絶の平和活動もささやかながら続けていきたい。これは中学時代を過ごした長崎の旧友たちの影響もある。 ああ、一体何足草鞋を履けば気が済むのだろうか? 多足草鞋が止まらない。  

これを止めるつもりはないけれど、全ての足を、しっかり地に付けていきたいものだと思うこの頃である。そしていつの日か、タンザニアあたりでのんびりと来し方を振り返る日を迎えたい。 

同期会3次会の後、コンビニのコーヒーを手に、唯一座ることのできた深夜の秋田駅。3Jの平野さんとは、秋高の編入試験を一緒に受けた。3E田近さんは、その昔平野さんの姉上にお世話になったという話。不思議な縁のひとコマ。

本年夏至の日。スウェーデンの我が家からの風景。

    3Eの所澤朗子です” に対して2件のコメントがあります。

    1. 佐藤尚子 より:

      所澤さんの半世紀にわたる人生の一端を垣間見て、感嘆と尊敬の念しきり。凄い、の一言に尽きます。好奇心と行動力とバイタリティ❗️これからもまだまだ楽しそうですね 来年の古希の会でもまた是非お会いしましょう

    2. 藤巻 ゆう子 より:

      所澤さん、藤巻(サルタ)です。6月の同窓会の時にメールアドレスを教えていただいたのに 、、、ご無沙汰してしまいました。すみません!
      確か高2の時でしたよね、所澤さんが生物部に入ってきたのは。化石や地層に興味があり生ものは苦手な私は古生物班でしたが、一度、皆で男鹿の海岸でキャンプした記憶があります。
      何年か前の牧野さん(J組)のリレーエッセイに所澤さんがコメントを寄せられていて、日本とスウェーデンを行ったり来たりしていること、そして生物部で集まりたいね、というようなことを書かれていたような、、、。『えーーーっ!そうなんだ!!!集まる機会があるなら、アタシも出る~~~~~!』と思い続け現在に至っております!
      この度の所澤さんのエッセイを読み、直接にお喋りしたい!お話を聞きたい!という気持ちがますます高まっている私です。
      連絡させていただきますので、よろしくネ!

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