3Eの佐藤一吉です

どうもこんにちは。3Eの佐藤一吉です。高校教員を退職して5年目です。退職後は、講師しながら畑作りをして日曜大工もしてなどと楽しいことばかり夢見ていたけど、実際は親の介護生活一色です。介護以外何もない生活ですがそのことを楽しく書くにはまだまだ人間未熟なので、ちょっと古くはなってしまうけど秋高がらみの内容で書くことにしました。教員として35年勤めたが、そのうち10年間は母校でした。生徒のときも含めれば13年間秋高とともにあった。思い出のシーンもたくさんある。何かにつけ思い出すのが・・・、文化祭、3年生があのねのね風に、先生方を歌っていた。「現国の授業中、小出先生がつぶやいた、こえで~」。体育館が笑いに包まれた。予餞会で1年の時、同級生が陽水を歌った。凄く上手くて感動した。やはり予餞会。小坂明子のあなたを歌った3年生、今に声が出なくなるでという予想を見事に裏切って、最後までちゃんと歌いきってしまった。きれいなハイトーンボイス、これにも感動。小体が震えたっけ。艇庫消失事件に対する3年生の主張。それは数列風であった。「尋問された最初の生徒の証言、これをa1としよう。次に・・・、そしてa1、a2、・・・、anの証言が見事にひとつに収束した」といって締めくくったこと。思い出のシーン、ひとそれぞれにいっぱいあると思うが、皆さんのとっておき、聞いてみたいものです。

 秋高で生徒として、職業人として、そして人間として育てられた。たくさんのことを学んだ。生徒の可能性は無限、若いということはそれだけでプライスレスだと学べたのは教師として実に有り難いことであった。13×17の計算。見ただけで頭の中のノートに答えが浮かび上がる子、(15-2)(15+2)として暗算する子、十等一和の法則で221ですと即答する子。多様な考えを引き出す授業の実践を第一に考えることに決めた。生徒が先生を育てる、これは真である。

 今の私の何割かは確かに秋高からできている。それでか、私にとって秋高とは何であったかと考えることがある。するとそこに、校歌を登場させるとしっくりくることに気づいた。多分その頃、必要に迫られて校歌について調べていたからかもしれない。
 当時(2012)、秋高キャリア教育のキャッチフレーズが、「品性の陶冶~わが生わが世の天職いかに おのれを修めて世のため尽くす」であった。このことがあってか校外から校歌について問われることが多々あった。さらにその頃、新入生がスムーズに秋高生活に入っていけるようにと田沢湖での合宿(北雄合宿)が行われていたが、そこで校歌を指導する先生から校歌の意味をよく知った上で教えたいという訴えがあった。私自身、振り返ってみれば、校歌の説明は聞いたこともなければしたこともない。目にしたことだってない。それで、簡単なものしかできないと思ったが、生徒向けに校歌の意味を書くことにした。
 調べ始めてみたら、面白いこと興味深いことが尽きなかった。気づけばここには資料も豊富にある。そして出来上がったのは次のようなものであったのだが・・・。
『天上はるかに太平山の。一番では淡々と秋田の風景を歌っている。 空高く聳える太平山、高みを指向しているその姿は、志望を高く持っている様を連想させる。
 海にと馳せ行く雄物川波。海は川の最終到達地点であり最終目標。滔滔と流れ続ける川の流れ、決して休まぬ川の流れに、こつこつと不断の努力を重ねる姿が見える。そして二番に続く。高きと長きと無言の教。「高き」と「長き」は一番の歌詞にある「太平山」と「雄物川」のこと。教えとは、太平山は高い志を、雄物川は不断の努力を指し、「志を高く持て、そして、努力を継続せよ」すなわち、「有志竟成」(後漢書)ということ。
 わが生わが世の天職いかに。秋高校歌のキーワードである。自分を生かす道、天職はいかなるものか。深く強く考えよ。一番から二番にかけての秋田の自然の描写から一気に秋高生の内面に迫っていく、この急展開が実に気持ちいい。

 三番では、先蹤を学ぶことは未来の希望を実現する力となる。先輩から学び、自分の夢を実現せよ。明るい未来を切り開け。ということ。
 四番。朱子語類に「陽気発処、金石亦透。精神一到、何事不成」とある。あえて「金鉄つらぬく陽気の如く」をうたい、次に続く「精神一到何事か成らざらん」を想起させようとしているようだ。おのれを修めて世のためつくす。秋高校歌もう一つのキーワードである。学びとは、自分を高め、世のためにつくすことであり、そうでなければ意味はないという。
 最後の五番は、秋高でともに学び、高め合った友と別れる場面、志を高く掲げ、決意して世界に飛び出そうとしている。
 このように、秋高の校歌は、起承転結の構成を持ち、一連の漢詩のように流れていく。世界や日本・秋田、あるいは、大きな可能性を秘めている自分という広大無辺なものが、決意あるいは覚悟という自分の中の一点に収束し、そして再び広い世界へと発散してゆく。大きな志を持った自分が世のためつくすために、世界へと飛び出していく。』

 この校歌調べ、自分にとっては大収穫であった。校歌が別の姿になって眼前に現れた。実に雄大な詞だと初めて思った。いつも強く厳しく私たちに語りかけている・・・。校歌が発する圧倒的な力を感じることもなく、ぼーっと過ごした私の3年間であった。時を惜しめ、志を高く持ち、努力を重ねよ、校歌の教えは見事にこの身をすり抜けた。今気づくも時すでに遅しである。校歌の紹介文が完成し、パソコン上の誰でも見られる「掲示板」にアップしたところで異動となった。生徒に紹介しようにもこちらは時間切れとなった。

 秋高は変わったなと思う。自分が生徒のときとはシステムも教育に対する考え方も随分と変わっている。でも根本の所では実はちっとも変わっていないのだと思う。上手くいえないが、秋高イズムは不変ということ。今の生徒には手厚いサポートがなされているが、当時の私たちはそうでなかったかというと、そんなことはなく、志さえあればどこまでもがんばれる学舎であったことに気づく。すなわち、秋高の本体は何も変わっていないのだと思う。昔と比べて今の方がいいと思わないのはそういうことだからなのだろう。

 最後、今年は校歌が制定(1922・7・15)されて99年、来年(2022)が制定百周年です。この機会にもう一度校歌について考え、校歌を通してあの遠い秋高時代に思いを馳せるのもいいのではないだろうか。ひとときのタイムスリップ、戻ったらちょっぴり心があったかくなっている。そうなってくれればこの上ない幸いである。お読み頂きありがとうございました。

2021(R03)年6月10日

コメント欄

田近吉彦 / 3 7月 2021 2:17am 
元3Eの田近です。
リレーエッセイを執筆いただきありがとうございました。

私は在学時、校歌の内容については特に気にもかけず、ぼーっと歌っていましたが、一吉君の解説によりこんなにも深い意味があったのかと今更ながら感心しました。
校歌は、なかなか格調高く内容の濃い歌詞だったんですね。

私達が入学した直後、応援団の先輩方が各教室に来て校歌の練習があり、五番まである長い歌詞のため私はなかなか覚えられず、歌詞の順番を間違ってしまうことが何回もありました。
このため、「天上はるかに、高きと長きと、篤胤信淵、金鉄つらぬく、あゝ友」と、歌い出しの部分を覚えるようにしていた記憶があります。
不思議なもので歌い出しを覚えると、そのあとの歌詞がすらすらと出てくるようになりました。
今思えば一吉君が書いているとおり、歌詞が洗練されていて一連の漢詩のように流れていく内容であったためと思われます。

S50年卒同期会は、コロナのせいで昨年に続き今年も中止となり、来年に延期になってしまいましたが、来年こそは皆で秋高の校歌を大合唱し美味しいお酒を味わいたいものです。
ご両親の介護で大変と思いますが、それまでお互いに体をいたわり元気に過ごしましょう。

追伸
現国の小出先生のこと、私もその時のことはよく覚えています。確か2人組でウクレレを持って歌っていたような…。

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