元3年I組の笹本公明(きみあき)です

同期の皆様、こんにちは。
元3年I組の笹本公明(きみあき)です。ご無沙汰しております。現在、草津で単身赴任生活を楽しんでおります。草津とは言っても温泉で有名な群馬県の草津ではなく、滋賀県の草津市です。江戸から行くと東海道と中山道の合流地点となる草津宿があったところで、大名・公家などの宿泊所である本陣が現存しています。京都・奈良以外にも日本史の舞台に出てくる場所や建造物が近くに多く、週末はこれらの地を訪ねたり、琵琶湖周辺や信楽焼きで有名な信楽周辺の山岳コースをサイクリングで回ることを趣味にしています。
さて、話は遡りますが、出身は世界遺産「白神山地」のふもと藤里町です。私が秋高入学当時、秋高の校長先生をやられた方が藤里町に戻ってきて住んでおられたという話は聞いておりましたが、他に藤里町出身の同窓生を知らないので、珍しい存在ではあったと思います。クラスは1H、2G、3Iの3別で、身長160cm(現在も変化なし)、体重56~57kg(現在は約11 kg増)で、当時はテニス部に所属していました。

高校卒業後は、東京の大学(化学工学系)で修士まで修め、化学工業系の企業に就職しました。最初は、高校の時からなりたいと思っていた研究職について、いろいろな新製品開発・新技術開発に携わりましたが、これといった新製品も開発できずに15年が過ぎ研究職を首になりました。(当時研究していた新製品の一つを後輩達が引き継いで、20年ほどかけて新プラント立ち上げ、商品化にこぎつけたくれたのが、救いです。)

その後は、山口県徳山市(現周南市)の工場で生産管理職を7年、保安管理職を5年半、東京の本社で5年半、富山県高岡市の工場で2年を過ごしました。工場は交替勤務制で24時間連続運転(正月もGWも休みなし)、トラブルがあると夜中でも電話がかかってきて現場にすぐに駆けつけるということも度々でした。特に、2003年は大きなトラブルが続き、毎日残業、休日ほとんどなしという日が続き、今でいうブラック企業も顔負けの状況でしたが、病気もせずに乗り切れたのは親が丈夫に生んでくれたことと、子供の寝顔だったと思っています。

そして約2年前から、子会社(塗料の会社)に移り研究と生産の両方を担当する役員に就いて現在に至っております。本拠地は、忍者の里である三重県伊賀市の工場・研究所ですが、他の研究拠点1か所、工場3か所、本社への出張で、半分以上は出張しているので、体力的にはきついですが、最初の研究職時代に達成できなかった新製品開発で一発あててやろうと意気込んでいて毎日を楽しんでおります。

とはいえ、ほとんど病気知らずであったのに、今の会社に移動後に胸の苦しみがあり狭心症と診断されてしまいました。検査の結果、血管狭窄はなく攣縮性(れんしゅくせい)とのことで、服薬のみの治療で行動制限はありません。最初は、数か月おきにニトログリセリンのお世話になっていましたが、ここ1年程は調子良く、最初に述べたサイクリングの効果が出ていると勝手に思っております。

まとまりのないエッセイになってしまいましたがお許しください。5年前に大館に自宅を構え、長期休暇もとれるようになったので、ちょくちょく帰省できるようになりました。健康に留意しつつ、すでに両親は看取ってしまいましたが、今までお世話になってきた社会や現在の家族への恩返しもしていかなければと思い立ったところでペンを置きたいと思います。8月の同期会にはまた参加したいと思っています。皆様にお会いできるのを楽しみにしております。

コメント欄

大島 昌良 / 21 5月 2018 1:05pm 
3年I組の大島昌良です。卒業生の大部分が県外の会社に勤めそのまま県外に住まわれる方が多い中、よく秋田に戻ってきてくれました。都会にはない、ゆったりとした時間が過行く秋田で、会社勤めで疲れたから身体を十分癒してください。

大島 昌良 / 21 5月 2018 4:33pm 
3年I組の大島昌良です。卒業生の大部分が県外の企業に勤めそのまま県外に住まわれる方々が多い中、よく秋田に戻ってきてくれました。都会にはないゆったりとした時間が過行く秋田で、激務で疲れた身体を故郷の水で充分に癒してください。

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