元3Cの鍵屋一です。3別でした。
元3Cの鍵屋一です。3別でした。。
高校卒業後は、いろいろと回り道をしながら26歳で板橋区役所に入りました。みなさんも、そろそろ退職の時期を迎えるかと思いますが、昨年3月にちょっと早めに退職しました。
板橋区役所32年間の在職中では、上司や職員と共に板橋経営品質賞や産業見本市、インターネット導入と全庁LANの敷設、全中学校での普通救命講習、防災基本条例、生活保護自立支援プログラムの作成、議会基本条例などに関わりました。印象に残った仕事を2つ話させてください。
一つは防災課長時代に始まった中学生の普通救命講習です。最初、手を挙げた中学校は24校中5校でした。中学生の感想文を読むと、ほとんど全員が人の役にたつ技術を教わった、すごく感激したと書いていました。これを普及させたいと、中学校を回って、校長先生にお願いにあがりました。半ば押し付けですが、2年後には全中学校が実施してくれました。以来、10数年継続し、板橋区内で4万人位の若い方が受講をしました。時々、板橋区内で若い人が119番通報をしたとか、AEDを持ってきたとか救命の話を聞きます。職員の努力がこのような形に現れ、本当にうれしくなります。
もう一つは福祉事務所長時代のホームレス支援です。都内で5千人以上いたホームレスの自立に向けて23区の福祉事務所長と一緒に、東京都と交渉して制度化できました。今は千人程度まで少なくなっています。多くの方々と協力して何十年も続きそうな仕事を形にでき、幸せな職業人でした。
ただ、私には人や組織を導く厳しさが足りません。人と争ってでも押し通す強さもありません。このため、手痛い失敗、手掛けながら成し遂げられなかったものが多くあります。あまりに多すぎて、書ききれません。
そのような板橋区役所の仕事からライフワークになったのが、防災です。 平成17年の耐震改修促進法の改正、耐震化の流れをNPOの仲間と共につくれたことは望外の成果になりました。災害時要援護者支援の枠組みは平成16年に国の担当職員とほぼ二人で原案を作りました。防災教育や防災ボランティア制度、災害対策基本法の改正時などでも公式、非公式に関与しています。直近では念願だった自治体職員を対象にした防災スペシャリスト養成研修が内閣府で始まりました。これも、多くの方々との協働の成果です。 ただ、要援護者支援の枠組みを考える中で、津波避難は脇においてしまいました。問題が大きすぎること、また板橋区に関係する首都直下地震とは無関係だったからです。しかし、東日本大震災で多くの要援護者が亡くなり、そればかりか要援護者を支援する役割をもった支援者も多数亡くなってしまいました。これは生涯で最も悔やまれる失敗です。一生をかけて償いの道を歩かさせていただく決意です。
地域活動では、板橋区卓球連盟の役員を30年続けています。体育館で年に10数回の大会、講習会を役員のみなさんと協力して実施します。卓球のおかげで、たくさんの地域の人とつながり、氣持ちが良くわかるようになりました。大きく道を踏み外さないで勤め上げられたのは、このおかげだと思ってます。
昨年3月、京都大学から博士号をいただき、4月からは跡見学園女子大学観光コミュニティ学部コミュニティデザイン学科の教員となりました。学内では学生への講義のほか、会議(実に多いです)、高校訪問、オープンキャンパス、入試などをしています。個人的には研究論文を書くほか、内閣府や自治体、地域、学校、福祉施設、マンションなど全国各地で防災の手伝いをし、内閣官房から「地域活性化伝道師」の名前をいただいています。
そして、昨年12月には生まれ故郷の男鹿市と跡見学園女子大学との連携協定を結びました。渡部市長の熱心なお声がけで実現しました。故郷のために貢献できる機会を与えていただき、なんと幸せなことかと思います。秋田に戻る機会も増えますので、みなさんに会えることを楽しみにしています。
教育と防災と言えば、関東大震災復興のリーダー後藤新平は「金を残して死ぬのは下だ、仕事を残して死ぬのは中だ、人を残して死ぬのが上だ」という言葉を残しています。浅学菲才の身であることはよく自覚していますが、今後は人を残して死ねるようになりたいと願ってます。